こんにちは長谷川です。
先日、社長のお父さんが作ったと言われる火鉢を見せていただく機会がありました。
火鉢を大切に保管してくれていた中里さん。
渡部家との付き合いは戦前から続いていると言います。
大阪火鉢と呼ばれる、炉の周りに卓のついた火鉢です。
魔法瓶が普及する前まではどこの家庭でも、このような火鉢で常に湯を沸かしている事が普通のことでした。
私たちが来るからと、久しぶりに火を入れていただきました。
渡部家具店から火鉢を購入したのは中里さんのお父さん。昭和22年(1947)頃のことだそうです。
中里さんは4歳だったそうですが、火鉢が家に来た日の事を今でも覚えているそうです。
第二次世界大戦が終戦してすぐの頃。日本にはまだまだお金も材料もない時代でした。
そんな時代であっても、この火鉢はとても良い材料で作られています。
初代・渡部儀三郎氏は腕利きの指物職人(木組みで木工品を作る職人)として有名な方でした。
そんな父の指導を受けながら、二代目の一男氏が製作した火鉢だそうです。
戦後物不足の日本では、贅沢な指物の需要は低く、生活必需品(精米機など)の製作を主にしていた渡部家具店。そんな折に、指物で製作する火鉢の依頼が来た事は、一男氏にとっても気持ちの入る仕事だったのではないでしょうか。
明治33年(1900)生まれの儀三郎氏はこのとき47歳。二代目の渡部一男氏は20歳の頃でした。
隅々のディティールにまでこだわりが感じられます。
本体の材料はケヤキ。金物も良い物が手に入りにくかった時代でしたが、なるべく感じの良い物を探して選んだことが想像できます。
卓の材料には黒柿が使用されています。
この時代の渡部家具店は、小野町の米の配給所に間借りして製作をしていたそうです。
引き出しの中は杉。引き出しの中など、外側から見れない部分には、当時の材料不足の影響を強く感じられます。
現社長の信一郎氏が生まれたのは、この火鉢が製作された8年後。昭和30年(1955)です。
とても丁寧に作られた火鉢から、当時の渡部家具店に思いを馳せます。
小野町の小さな指物工房から始まった、渡部家具店。
二代目の一男氏が郡山に出店し、三代目の現社長が住環境のトータルデザイン事業としてラビーダをスタートさせました。
少しずつ拡大して行っているラビーダですが、初心を思い出しルーツを振り返る、とても貴重な機会となりました。地に足のついたモノ作り企業として、よりいっそう地元に必要な会社となれるよう、大切なことをこの火鉢から学べたように思います。
長谷川
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